『東方遊月兎』
この世のどこかにある幻想郷。
その幻想郷の人里離れた山奥の。
果てしなく続く竹林の中。
永遠亭はそこにありました。
「師匠。師匠ー」
屋敷の数少ない住人、鈴仙の声がこだまします。
永遠亭には鈴仙の他に、主である輝夜と師匠の永琳、あとは兎しか住んでいません。しかもそのうちの9割が兎です。しかしその割に、面積はとても広いのです。特に廊下は、どこまでも続いているかのように終わりが見えません。もし何も知らない、住人以外の者が来れば気が滅入ることは間違いないでしょう。もっとも、住人以外の者が入ってきたことは数える程しかありませんが。
その長い長い廊下を歩きながら、鈴仙は永琳を探しています。広い面積と廊下で、人を探すのも一苦労です。そもそも、永琳を探しているのは彼女に呼び付けられたからでした。しかし呼び出されたのはいいものの場所が知らされていなかったのです。当然永琳の居室に行きましたが、そこに姿はありませんでした。永琳は様々な術や薬の調合のため、色んな部屋を使い分けているのです。そのため、鈴仙は広い屋敷を探し回る羽目になっているというわけです。
「師匠ぉー」
鈴仙は理不尽さを感じながらも師匠を探します。弟子の扱いとはこんなものなのでしょう。
「あ、鈴仙ちゃんだ」
鈴仙の呼び声に答えたのは、探していた永琳ではなくて、屋敷に数いる地上の兎、てゐでした。近くの部屋にいたところ、鈴仙の声を聞きつけて出てきたのでしょう。
「てゐ。師匠を見なかった?」
急いでいる鈴仙は彼女に尋ねます。でも、悪戯好きのてゐの性格からしてまともに教えてくれるとは限りません。彼女はその明るい笑顔とは裏腹に、とても性格が悪い兎です。
悪戯といっても永琳や輝夜は怖いので、基本的に被害に遭うのは鈴仙です。困ったものです。
「えーりん様ならさっき桔梗の間にいたよ」
「あら、そう。ありがとう」
「いえいえ〜」
なんと普通に教えてくれました。鈴仙は軽く驚きつつお礼を言います。悪戯好きといっても、彼女は地上の兎をまとめるリーダー。ちょっとはまともな場合もあるということでしょう。
しかし、
「でもてゐ。いつも言ってるけど、『ちゃん』はやめなさいね」
「ええー。可愛いのにー、鈴仙ちゃん」
微笑みながらそう言います。彼女は鈴仙が困るのをわかっていて『鈴仙ちゃん』と呼ぶのです。むしろ困るからこそ、その呼び方なのでしょう。本当に困ったものです。
とにかく、目的の永琳の居場所がわかりました。
からかってくるてゐは無視して、鈴仙は師匠の元に向かいます。どうやら桔梗の間にいるみたいです。屋敷の部屋には全て名前が付いていて非常に便利。覚えるのは大変ですが。
長い長い廊下を、師匠を求めて歩みます。
「桔梗の間、遠いなぁ」
住んでいる者でも遠さを実感する、そんな廊下です。
そしてついに独り言まで言い始めました。危険な状態です。
「まったく、師匠にも困ったものね」
愚痴も言います。日頃からそれ程に苛められているのでしょう。上の立場の輝夜や永琳から苛められ、下の立場のてゐからからかわれ。中間職というのも大変なのものなのです。それも、その立場は鈴仙一人です。独り言で愚痴も言いたくなります。
「誰が、困ったものなのかしら?」
「ひぃっ!!」
しかしそんな愚痴に限って、ばっちり本人に聞かれていたりするのです。
驚いた鈴仙が声をした方を向くと、そこには桔梗の間にいるはずの永琳が笑顔で立っていました。
とても穏やかな笑顔です。どこにも怒気など含まれていません。しかし鈴仙にとっては冷や汗ものです。
「し、師匠……」
「いつまで経っても来ないから探しに来たのだけれど……迷惑だったかしら?」
そんなことを言いつつ、本当は鈴仙の陰口を聞きつけて飛んできたのかもしれません。
非常に広く静かな廊下でまったく気付かれずに近付くなんて限りなく不可能に近いのですけれど、彼女は天才の上、宇宙人なので時々よくわかりません。
「い、いえ! そんなことはないです!」
もちろん『師匠が場所を教えてくれなかったから』というつっ込みはしません。さっきの独り言を聞かれたのもありますし、いちいち彼女を逆撫でするようなことはしないに限るのです。
「まぁ、いいわ。本題に入りましょう。お前を呼んだのはね――」
「あ、あの、師匠。薬の実験だけは……」
永琳の薬の実験台は、鈴仙にとっては最も怖ろしいものの類です。実際は誰にとっても怖ろしいのですけれど、実験台になるのはもっぱら鈴仙なので被害を共有できる者はいません。とても可哀想な鈴仙なのでした。
「今回は、違うわよ。お使いを頼みたいのよ」
今回は違うということは、次回はあるということでしょうか。身の毛がよだつ鈴仙でしたが、怖いので聞き返したりしません。君子危うきに近寄らず、です。向こうから近付いてきたら別でしょうけれど。
「明日、この薬を八雲紫に届けてほしいのよ」
薬を届けるだけ。ほんとにただのお使いです。
しかも、その届け先の名前には聞き覚えがありました。
「八雲紫……って、この前ここに押し入ってきた?」
「そうよ。ちなみにこれは睡眠薬。彼女から依頼があってね」
天才薬師の永琳にとっては妖怪向けの睡眠薬といっても、ほんの朝飯前です。
妖怪に睡眠薬が必要かどうかは不明ですが。
「へぇ。珍しい妖怪もいたものですね」
「いいこと、ウドンゲ。胡散臭い風貌と言動だけれど、彼女の能力はすごいのよ? その気になれば、この幻想郷の結界すらも自由にできるほどに。侮らない方がいいわ。胡散臭いけれど」
「あ。は、はい」
月の使者すらも入って来れないあの博麗大結界を壊すなんて。
そんなこと鈴仙にはおろか、永琳や輝夜でさえできないでしょう。
それを一人の妖怪が簡単にできると永琳は言います。
鈴仙は軽く寒気がしました。
「だから押し入られたことなんて忘れて、敬意を持って接しなさいね」
たしかに以前、鈴仙は押し入られた人妖達にいとも簡単にのされてしまいました。
そんなデタラメな妖怪だっただなんて。敵わないはずです。
「わかりました。では明日行って参ります。それで、その方は何処に住んでいるのでしょう?」
「わからないわ」
「はい?」
鈴仙は、薬を届けにお使いに行ってほしいと頼まれました。
依頼人は八雲紫という妖怪です。
内容は睡眠薬です。
そしてその薬は完成していて、あとは届けるだけ。
しかしその届け先がわからないと永琳は言います。
「一体どういうことですか?」
「いやね、作ってから気付いたのだけど。彼女がどこに住んでいるか知らないのよね。向こうも言わなかったし」
なんとも間抜けな話です。
でも思っていても口には出さない鈴仙です。
「居場所がわからないって、届けようがないのでは?」
「甘いわウドンゲ。彼女の居場所は知らなくても、それを知っている人物を私達は知っているわ。そしてその人物の居場所も、ね」
鈴仙も馬鹿ではありません。
幻想郷で馬鹿といえば一人しかいないのです。そしてそれは鈴仙ではありませせん。
それはとにかく、馬鹿ではない鈴仙は、永琳が何を言いたいのかくらいはわかります。
「ま、まさか師匠!?」
「そのまさか、よ。紫の住所は彼女に尋ねなさい」
永琳の言う彼女とは、永遠亭の者なら誰でも知っている、主人の敵を守る半獣。上白沢慧音のことです。歴史に詳しい彼女は、幻想郷で知らないことはないとまで言われています。だから鈴仙も、彼女なら知っているということに関しては異論はありません。しかし、たとえ自分のほしい情報を持っていたとしても敵は敵。そんな人物に頼んでも教えてもらえないだろう、というのが本音です。
「えーと、まともに聞きにいっても果たして教えてくれるかどうか」
「それは何とかなさい。菓子折りでも持っていったらどうかしら」
「そんなぁー」
その場合は、もちろん費用は鈴仙持ちになるのでしょう。
必要経費なんて出るはずがありません。
「とにかく、お前に任せるから。薬は必ず届けてちょうだい」
師匠にそこまで言われたら鈴仙には断れません。
弟子とはどんな時でも、辛く悲しい立場なのです。
「……はい。何とかしてみます」
「お願いね。ああ、それとウドンゲ」
頼まれごとを了承して、立ち去ろうとしていたところを、再び永琳に呼び止められます。
「はい、まだ何か?」
既に頭の中では、どうやって慧音に頼もうか考えていました。
しかし、永琳にとってはまだ話は終わっていなかったみたいです。
頭では別のことを考えつつ師匠に向き直ります。
「話しておきたいことがあるのよ。ちょっとそこの部屋に入って座らない?」
永琳が指す先には『牡丹の間』という部屋がありました。
一瞬、また薬の実験かと思った鈴仙ですが、どうやらそんな様子ではありません。
珍しく真面目な雰囲気です。何か変なものでも食べたのでしょうか。
もちろん思っていても口には出しません。
「一体何でしょうか?」
先ほどまでと違って永琳が真剣な面持ちなので、鈴仙は考え事をいったん頭の隅に追いやりました。
完全にシリアスな空気です。
師匠がシリアスなのに、弟子の自分がちゃかすわけにはいきません。
鈴仙は真剣に耳を傾けます。
「さて。一体どう話したものかしらね」
永琳は語り出しました。
「……お前、月に帰る気はある?」
翌日。天候は快晴です。
太陽が西に傾き始めた頃、鈴仙はお使いに出発しました。
目的地は八雲家。
しかし鈴仙が向かうのは人間の里です。上白沢慧音がそこにいるからです。
「そういえば、今夜は満月か……」
鈴仙の言うとおり、今夜は満月です。元々月にいた鈴仙にとって、満月かどうかなんてことは夜にならなくてもわかるのです。もちろん、今夜空に浮かぶのは本物の満月です。永琳が秘術で満月を隠していたのは過去の話。今の幻想郷には本物の満月が戻っています。満月は幻想郷に暮らす妖怪達にとってはなくてはならないものなのですから。
「まだ朝だから問題ないだろうけど。向こうは半獣だしなぁ」
半獣である慧音は、満月の夜になると獣としての本性を表します。見た目はもちろん、気性も荒くなるのであまり近付きたくないのが本音です。それに、獣の時の方が強いので、万が一その場で喧嘩になった時には厄介なことになるでしょう。
「しかしまぁ、今回は喧嘩をしに行くわけでもないし」
そして、相変わらず独り言を言う鈴仙でした。
独り言は癖になるので気を付けなければいけません。
「人間の里に来るのも久しぶりね」
だいぶ人間の里に近付いてきました。
この里に慧音がいるとはいっても、具体的な場所まではわかりません。
そもそも、人間よりは妖怪に近い鈴仙は人間の里に来るなんてほとんどありません。
忍び込むにしても、どうしても目立つその耳のせいで普通じゃないとばれてしまうでしょう。
だから、何とかしてばれないように忍び込み、慧音の居場所を探す必要があるのですが……。
「何の用だ?」
どうやらその必要はなくなったみたいです。
慧音の方から、鈴仙の狂気を察知して近付いてきたのです。
彼女は半獣だけれど人間の味方。里に不穏な気配が近付くと即座に迎え撃つために出てくるのでした。
しかし今回は争いに来たわけではないので、慧音と穏便に話し合う必要があります。
「妹紅だけでなく、ついに人間の里にまで手を出すつもりか? そんなことは私が許さない」
でも慧音はいきなり臨戦態勢です。
やはり鈴仙のような永遠亭に住む者が気にいらないのでしょうか。
もしくは、今夜は満月なので気分が不安定なのかもしれません。
「待って。今日は争いに来たんじゃないわ」
そんな喧嘩っ早い慧音に、必死に説得を試みる鈴仙です。
戦って勝てない相手ではありませんが、今は永琳のお使いの途中。
こんなところで弾幕勝負をして体力を使ったりするのは得策ではないのです。
「では何しに来たんだ? お前が人間の里に来る用はないだろう?」
「別に人間の里に用があって来たんじゃないわよ。私が用があるのは貴女」
嘘をついてもしょうがないので、正直に話します。
永琳ならともかく、鈴仙では慧音に頭の良さでは絶対勝てないのです。
「私、だと?」
怪訝な顔をする慧音です。当たり前でしょう。
今までいがみ合っていた相手が、喧嘩をするわけでもないのに用があると言って訪ねてくるのですから。
「一体何を企んでいる?」
「別に何も企んでいないわ。貴女に頼みがあるのよ」
予想はしていたとはいえやっぱり疑いたくなるのも当然だな、そう思う鈴仙でした。
だからこそ、頼みがあると正直に話したのです。
「……話してみろ」
今度は鈴仙は驚きました。慧音は、憮然としながらも話を聞いてくれると言うのです。当初の予測では、一悶着くらいあると思っていたのですが。一体どういうことでしょうか。すんなり教えてもらえないと踏んで色々と準備していたのは無駄になるかもしれません。まぁ、教えてもらえるのなら何の問題もありませんが。
考えても仕方ありません。何か理由があるのかもしれませんし、ただの気まぐれかもしれません。
聞いてくれるというのですから、鈴仙は素直にお願いすることにしました。
「八雲紫という妖怪を知ってる?」
「ああ。前にここに来たな」
その『前』とは永遠亭が襲撃されたのと同じ日です。
永遠亭が襲撃されたのには、慧音が一枚噛んでいるのでした。
もっとも、彼女は場所を教えただけですが。
「そうなの? でね、その方の居場所を教えてほしいのよ。師匠の命令で、薬を届けなきゃいけなくて」
「ふむ。お前も色々と苦労しているのだな」
何だか同情されています。慧音は元々敵なのに、同情されています。
それほどに今の鈴仙は不憫に見えるのでしょう。
「そうなのよ。師匠ってばこの前も…………その話は思い出したくないからいいわ。やめましょう」
いつも洗礼を受ける永琳の新薬の実験は、鈴仙にとって軽くトラウマです。
そして思い出せばキリがありません。
最後には涙が止まらなくなるのです。
そんな様子の鈴仙を見て、慧音は笑っていました。
「ふふふっ。ああ、すまん。で、だ。八雲紫の居場所についてだが」
慧音の方も、元々は敵だというのを意識してでしょうか。笑ったことにどことなく気まずさが漂っています。慌てて本題を持ち出すあたり焦っているのでしょうか。
「残念ながら、私も住みかはわからない。幻想郷のどこかに隠れ住んでいるのだろう。あの女は結界師だからな、隠れるには打ってつけの能力だ」
「ええー!」
なんということでしょう。唯一の手掛かりだと思って慧音を訪ねてきたら、なんと彼女にもわからないときました。
これはまずい。鈴仙は頭を抱えました。
このままお使いを達成せずに帰ったら、間違いなく師匠の折檻が待っているからです。
それは、新薬の実験などとは比べ物にならないくらいトラウマになりかねないです。
しかし、そんな様子の鈴仙を(少し面白そうに)見て慧音が言います。
「まぁそう早まるな。住みかはわからないとは言ったが、会う手段ならなくもないぞ?」
「本当!?」
慧音の言葉を聞いて瞳を輝かせる鈴仙。
しかし、同時に少し疑問に思います。
自分から頼んだこととはいえ、どうして慧音はこんなに協力してくれるのだろう、と。
その疑問も当然でしょう。本来なら争い合っている仲なのですから。
「ねぇ。どうしてそんなに協力してくれるの?」
思い切って聞いてみました。
元々、慧音が守る人間、妹紅と仲が悪いのは鈴仙が仕える姫、輝夜です。
極端な話、鈴仙には彼女達を恨む直接的な理由はないのです。
だからそんなことも聞けてしまうのでしょう。
「ん? …………そうだな」
慧音は、少し考えたあと、こんなことを聞いてきました。
「最近、輝夜と妹紅はそんなに仲が悪くないように見えないか?」
鈴仙にとっては意外な問いでした。自分がした質問と何の関係があるのかがわからないからです。
輝夜と妹紅の仲?
そんなものは、今までの関係が関係だったので、考えたこともありませんでした。
しかしたしかに、慧音が言うことも一理ある気はします。
「うーん。まぁ、あまり殺し合いをしていない気はするけど」
そう言われればそんな気がする、程度にしか鈴仙にはわかりません。
永遠亭では、永琳が賢すぎるので考えることは彼女に任せっきりですから。
鈴仙の担当はもっぱら、荒事と狂気なのでした。
「いつごろからかわかるか?」
はたしていつごろだっただろうか。輝夜と妹紅の仲が、良いまで行かなくとも、そこまで悪くなくなったのは。鈴仙にはパッと思いつきませんでした。そもそも、鈴仙が幻想郷に来たのはほんの数十年前。それに比べて、永琳の話では輝夜と妹紅の争いはもう千年近く続けていると聞きます。そりゃ、わからなくても無理はありません。
慧音がいつごろから妹紅と一緒にいるのかは鈴仙にはわかりませんが、妖怪であり人間でもある彼女は、鈴仙より客観的に二人の関係が見ることができるのでしょう。頭の出来の違いもあります。
「おそらく、二人が揃いも揃ってあの人妖達にコテンパにやられてからだ」
なるほど。
鈴仙は納得しました。千年間屋敷で隠れ住んできた輝夜にとって、あの一件はとても大きなものだったでしょう。幻想郷が結界で閉ざされていて、月からの使者は入って来れないとわかったのですから。そして、輝夜のお誘い(陰謀とも言う)に乗った彼女達に、竹林にいた妹紅もやられてしまいました。それまでいがみ合って殺しあっているだけだった関係が、彼女達にやられたことよって変えられてしまったのです。それが具体的にどう変わって、良いことなのか悪いことなのかは、相変わらず鈴仙にはわかりませんでしたけれど。でも鈴仙は隠れ住んでいるよりも今の方が輝夜にとってもいいような気がします。輝夜は日頃から退屈だと言っていましたし。
ちなみに『二人がコテンパにやられた』と言っていますが、やられたのは輝夜や妹紅だけではなくて、ここにいる二人も同様です。むしろよりあっさりやられたりしていますし、慧音の方は二度も負けています。
「つまり、二人の関係が何となく変化したから、今こうして私と話していると言うの?」
「まぁ、そんなところだ。お前は争いに来たんじゃないと言ったしな。すまんな、はっきりと答えれなくて」
慧音の口から『すまんな』という言葉が出てきたことに軽く驚く鈴仙です。
「さてと。雑談もここまでだ。八雲紫に会いたいのだろう?」
慧音が話を戻しました。それを聞いて鈴仙も、ここに来た目的を思い出します。
彼女には永琳のお使いという、最重要かつ最優先の任務があるのです。
「ええ。でもどうやって?」
「この前一緒にいた巫女もそうだが、彼女は結界師だ。それを利用しない手はない」
慧音の講義が始まりました。
「お前が会いたがっている八雲紫は境界を操る程度の能力を持つ。胡散臭いような能力だが、これは使いようによってはもの凄く強力な能力なんだ。たとえば、境界の内と外を遮断すれば結界が完成する。しかも彼女はそれを複数同時に扱っていたな。それほど彼女の力が強いんだ。次に、自分の空間と別の空間の境界を操れば瞬間移動ができる。その際にできる空間の裂け目から『すきま妖怪』と呼ばれることもある。まぁ、これは本人は怒るかもしれないがな。さらには、朝と夜の境界をいじるなどして、時間をも操ることができる。などなどだ。わかるか? その能力の使い方は実に様々なんだ。そして何より恐ろしいのは、あの博麗大結界ですら彼女は自由にできるということだ。おそらく自由に向こうとこちらを行き来することも可能だし、やろうと思えば壊すこともできるだろう。つまりは、幻想郷の未来は八雲紫が握っていると言っても決して過言ではない。もっとも、彼女に博麗大結界をどうこうしようという意思があればだろうけど、本人は普段は式に仕事を任せてほとんど寝てすごしているからな。住みかを知っている者がほとんどいないのも、寝てばかりだからかもしれないな」
そこまで一気に喋りました。
鈴仙は一応、一通り聞いていましたが、話すペースに聴解力がついていきませんでした。
とにかくわかったことは『八雲紫は空間を自由に出来る』という程度です。
「それで、その結界師の能力をどう利用すると?」
結局、もう一度同じことを聞き返してしまう鈴仙でした。
それに対して、慧音の取った行動は……。
「つまりだ。空間を操れるということは、遠距離でされている会話なども盗聴し放題。しかも、気に食わなかったらその場所と自分の場所を繋げて即座にそこへ行くことができる。要は『結界師=地獄耳』というわけだ。とんでもないくらいな。だから本人に用があるなら悪口の一つでも言ってやればいい。どうせ聞いているだろう。まぁこの場合、八雲紫のとし――」
「だーれが、地獄耳で年増なのかしら?」
実際に八雲紫本人を呼んでしまうことでした。
「ひぃぃぃぃっ!!!!!」
「ほら、出た」
突然、背後から声が掛かったのです。予想だにしていなかった鈴仙は、おもわず絶叫しています。驚きながらも、冷静な部分が考えていたことは「昨日もこんなことがあった」ということでした。どうして、永琳といい紫といい、自分の背後に音もなく現われるのだろう、と理不尽さを噛み締める鈴仙です。根本的に苛められキャラなのだから仕方ないのでしょう。
「呼んだ?」
「ああ、こっちのが用があるらしい。……別に年増だなんて言おうとしてなかったからな?」
驚いている鈴仙をしり目に、気楽に会話をする慧音と紫です。
紫はともかく、なぜこんなに慧音が慣れているのかすごく気になる鈴仙でした。さすがは知識人です。
「あ。そ、そうです、そうです! 八雲紫さま。師匠……永琳さまから薬を預かってるんです。頼まれていた睡眠薬だそうで」
やっと我に返った鈴仙はお使いの仕事をこなします。
ついに今日の本題に取り掛かることができました。
まさか向こうの住所まで向かわず、人間の里で渡せるとは思っもいませんでした。
「これで目的は果たせるな? 私はもう退散するとしよう」
「あ、ちょっと! 紫さま、ちょっと待ってて下さい」
立ち去ろうとする慧音を鈴仙が呼び止めます。その際にはきちんと紫に了承を得てからです。永琳に『紫には敬意を払え』と言われていたのを忠実に守っているのです。ここら辺が鈴仙の律儀なところですが、その真面目な性格故に永琳や輝夜にからかわれてしまうのでしょう。
「これ、お礼です。人間用の各種薬剤」
「お礼?」
「ええ。本当はこれで釣って頼みを聞いてもらおうと思っていたのだけど。貴女は普通に私の頼みを聞いてくれたから。だから、お礼。あ、安心してくれていいわよ。師匠が調合した怪しげなものじゃなくて、ちゃんと私が調合したものだから」
そう言って薬が入った包みを慧音に手渡します。昨日、師匠から慧音に頼むよう言われて考えていたことが、人間用の薬をお土産に持っていくことでした。慧音は人間が大好きだし、人間の里に暮らしているのだから、これほど丁度いいものはない。とてもいい考えだと思ったのです。
受け取った、お土産からお礼に扱いが変わった薬の包みを、慧音は不思議なものを見る目で見つめます。
心底驚いている様子です。お礼を、しかも人間用のものを鈴仙からもらうとは思いもしなかったのでしょう。
「それじゃ、ありがとう! 助かったわ!」
そんな慧音の様子に満足した鈴仙は、里に戻る慧音を見送ります。
帰り際、慧音は振り向いて鈴仙に向かって言いました。
「こちらこそありがとう。鈴仙・優曇華院・因幡」
ちょっと照れています。
「鈴仙でいいわよ」
けっこう照れています。
それを見ていた紫が、楽しそうに、そして微笑ましそうに呟きました。
「仲良きことは美しきかな」
「で、私が受け取るのは貴女の師匠が作った怪しげな薬、と」
「はうっ! いや、その、さっきのはそれは言葉のあやというやつでして……」
先ほどの鈴仙の台詞を聞いていたのでしょう。楽しそうにニヤニヤしながら言ってきます。鈴仙としては軽い冗談で言ったつもりなのです。紫の方もそれはわかっているのでしょう。ここでも鈴仙はからかわれる運命なのでしょうか。
「……はい。これが師匠から預かったお薬です。もちろん怪しくなどありません」
「ええ、確かに受け取ったわ」
「そ、それと先ほどのことはどうか師匠には内密に……」
怪しげな薬と言ったことに対して口止めを頼む鈴仙です。冗談だとしてもバレたら折檻ですから。絶対に永琳に知られるわけにはいかないのです。
「ふふふ。どうしようかしら〜」
楽しそうに言う紫。その顔にはもちろん笑顔。
何だか永琳の笑顔を思い出して、泣きたくなる鈴仙でした。
「冗談よ。貴女の師匠には黙っておいてあげるわ。わざわざ私を探しに来てくれたんですものね」
「ありがとうございます!」
これでようやく、目的の薬を渡すことは達成できました。これも慧音のおかげでしょう。
「でもそうね。黙っておいてあげる代わりに、少し散歩に付き合う気はない?」
「散歩ですか?」
「ええ。貴女の師匠には黙っておいてあげる代わりに、ね」
なぜそれを繰り返すのでしょうか。鈴仙には脅迫のようにしか聞こえません。
そんな風に言われたら選択の余地はないのです。
でも幸い、特に急いで戻らなければいけない理由もありません。
普段はほとんど屋敷に篭りっぱなしなので、たまには散歩というのもいいかもしれないと思う鈴仙です。
「じゃあ行きましょうか」
紫は来たときのように空間移動とは違い、普通に飛んでいきます。それを見てちょっと安心する鈴仙でした。自分にはもちろん空間を移動する能力はありませんけど、たとえできたとしてもあのスキマを通るのはちょっと勘弁したいと思っていたのです。
鈴仙は、紫の後を追いながら尋ねます。
「紫さま。一つ、伺いたいことがあるのですけれど」
「何かしら?」
「師匠から聞いたのですけれど、紫さまは自由に幻想郷から出ることが可能だとか」
昨夜、永琳から聞いたことです。それに先ほど、慧音も同じように話していました。
彼女は幻想郷の外と中の行き来が自由にできる、と。
「そうね。もしかしてウサギさんは、ここから出て行きたいのかしら?」
「…………自分でもよくわかりません」
「ふぅん。まぁ、私はたまに出て行ったりしてるわよ。逆に外のものを持ち込んだり。けっこう楽しいのよ」
「い、いえ。私は別にそういうことを楽しみたいわけでは……。あとウサギさんは止めて下さい」
「それは残念ねぇ」
心底残念そうに言う紫です。
ちなにみ、紫の言う『もの』とは、物であり者です。見た目ほとんど人間と変わらない紫ですが、これでも力のある妖怪です。なので当然食料は人間。いつの時代も妖怪は人間を襲い、人間は妖怪を退治するのは変わりません。特にここ幻想郷には、人間離れした、妖怪に近いほどの人間も何人かいるので、並みの妖怪ではやっていけない場合も多いのです。鈴仙も、紫と一緒にいた人間、博麗霊夢と戦いましたが、その強さは紫に勝らずとも劣らない、相当なものでした。
「さて、目的地が見えてきたわ」
散歩に目的地というの少し変な話です。そう思った鈴仙でしたが、細かいことを気にしないようにしている彼女は、それを細かいと思うことにしました。世の中、それくらいでないとやっていけない場合もあるのです。主に自分より立場が上の人といる場合です。
「紫さま。目的地って……?」
「あれよ……」
鈴仙が尋ねると、紫は地上の一点を指差しました。
そして、そこに向けてゆっくりと下降していきます。
「博麗神社よ」
「…………これまた、珍しい組み合わせね」
その博麗神社の庭を掃除している紅白の服を着た少女、博麗霊夢は開口一番そう言いました。
もうすぐ日が沈む、暑すぎず涼しい程度の時間帯。そろそろ掃除を中断して休憩に入ろうかどうかと思っていた矢先に、上空から来客が降りてきたのです。それが紫と鈴仙という組み合わせの二人組みでした。
博麗神社は人妖を問わず様々な来客がありますが、紫が自分の式以外の者と一緒というのを霊夢はほとんど見たことないのです。だからこそ、一見なんの関係もない紫と鈴仙が一緒にいるのが余計に珍しく見えますし、事実、珍しいのです。
箒で庭を掃く手を止めて二人が降りてくるのを見ていた霊夢に、紫が言いました。
「霊夢。またサボろうとしていたでしょう?」
「休憩よ、休憩。だってこんなにいい天気なんだもの。お昼寝しなきゃ損じゃない」
紫の一言目に対する霊夢の答えがそれです。寝なきゃ何が損なのでしょう。
どうでもいいのですが、この二人の間には挨拶というものはないのでしょうか。
「いつも休憩、休憩って。寝てばかりじゃないの」
「貴女にだけは言われたくないわ」
間違いありません。
「それで? 二人揃ってどうしたのよ」
「そうそう。紹介がまだだったわね。彼女は博麗霊夢。巫女よ」
「あの、知ってますし会ったこともあります」
「あらそう。看護婦の方がよかったかしら……」
「ちょっと! 変なこと言わないでよ!」
紫に霊夢を紹介される鈴仙でしたが、彼女の言うとおり鈴仙は霊夢と会ったことがありますし、その時に闘いもしました。そもそも、その場には紫もいました。
永琳の満月を隠す秘術を解くために、霊夢と紫は永遠亭に攻めてきたのです。その時に迎撃に出たのが鈴仙でした。結果は鈴仙の惨敗でしたけれど。本来、鈴仙はそれほど弱くありません。霊夢と紫が強すぎたのです。
「でね、この子がね。霊夢の掃除の手伝いをしたいそうなのよ」
鈴仙が少し前の、紫や霊夢と初めて会った時のことを思い出していたら。
紫が突然そんなことを言い出したのです。
「はい?」
「ほんとに!?」
驚きに目を見開く鈴仙と、喜びで目を輝かせる霊夢。反応は様々です。
鈴仙が驚くのも当然の反応でしょう。半分脅されて散歩に付き合って神社に来てみれば、掃除を手伝うことになっているのですから。
霊夢が喜ぶのも当然の反応でしょう。最近は大した事件もなく、毎日掃除と休憩(主に後者)をするだけの生活。他人が掃除を手伝ってくれるのなら、自分は休憩しかしなくていいのですから。
紫は一体何がしたいのでしょうか。
もちろん、鈴仙は食って掛かります。散歩に付き合うだけのはずが、神社の掃除だなんて話が違いすぎます。詐欺にでもあった気分でしょう。
「ちょ! 紫さま! 私は手伝いなんて一言も――」
「怪しい薬(ボソ)」
「ううっ……」
この時鈴仙は、人に弱みを握られることの不都合さをよく理解しました。冗談とはいえ、二度と師匠の悪口を人に聞かれないように誓う鈴仙でした。紫のようにそれを嬉々として活用してくる相手には特に気を付けなければいけません。
今回は、もはや従うしかありません。すでに弱みを握られているのですから。
鈴仙は渋々頷きます。折檻よりも掃除の方がずっとマシです。
「仕方ありませんね。神社の掃除を手伝えばいいの?」
「いいの!? 助かるわー。じゃあ、まず庭の掃除をお願い」
「はいはい……」
しかし、掃除が面倒くさいといっても、所詮はそこまで広くない神社の庭。
これの何倍もの面積を誇る永遠亭の掃除に比べれば、大したことないのも事実です。
鈴仙はさっそく取り掛かりました。
「頑張りなさいね〜」
紫は、神社の縁側に座りながら、のん気のお茶を飲んでいます。
「よろしくねー」
霊夢も一緒になってお茶を飲んでいます。
ちなみにこのお茶は、霊夢が休憩の時のために用意しておいたものです。いつ休憩が入っても大丈夫なように、掃除の際にはいつも準備されているのです。そして掃除を始めたとしても、用意したお茶が冷めないうちに休憩をします。せっかくの熱いお茶なので、冷めたらもったいないのです。
いつでも限りなくだらけた巫女、それが博麗霊夢です。
「何かどこか遠くでとても失礼なこと言われている気がするわ」
勘が良いのは言うまでもありません。
「日頃の行いが悪いからよ」
「貴女にだけは言われたくないわ……」
そんな風に二人が談笑(?)している間、鈴仙は一人、庭の掃除に励みます。屋外なので埃はないのですが、木から落ちてきた葉っぱや砂利などが大量にあります。しかし、この類のゴミは目に見えない埃を掃除するよりも楽なのです。だからあまり苦労はせず庭の掃除は終わりそうです。普段は果てしなく長い廊下の埃を掃除している鈴仙にとっては、楽な仕事でした。
しかし、
「それが終わったら中もお願いね」
無情にもそう言う霊夢です。
ついでだから、普段掃除しないようなところまで掃除してもおうとか企んでいるのでしょう。
鈴仙はため息をついて肩を落とします。
「いいわよ。この際だから全部掃除してあげるわよ」
鈴仙が掃除を始めて数時間。
もうすぐ日が沈みます。
太陽からの日差しは緩くなり、涼しくてちょうどいい気温です。掃除の手も進むというものです。
庭の掃除から始まり、境内、水場、廊下、と掃除してきた鈴仙でした。
鈴仙は掃除が専門ではないので完璧に綺麗とまではいきませんけれど、さっきまでよりは目に見えて綺麗になっています。どちらかといえば、さっきまでが汚れすぎていたのでしょうか。多少の手入れはされていましたが、この神社に一人で暮らしているとなると掃除をするだけでも一苦労なのでしょう。だから掃除が行き届いてなくても仕方がない。寝ている霊夢をしり目に、そう思っておくことにした鈴仙でした。
「霊夢。廊下の掃除も終わったわよ」
寝ている霊夢に話しかけます。
寝ている人に話しかけるのは、本人がまったく反応しなかったらすごく切ない気分になるので気を付けなければいけません。
そして霊夢の反応は、寝返りをうつことでした。
それだけではありません。
「おーい。霊夢ー」
「…………むぅ…………お賽銭がたくさん…………」
寝言です。なんてわかりやすい寝言でしょう。きっと彼女の見ている夢の中では、お賽銭箱は満タンになっているのでしょう。もちろん、現実とは真逆です。夢は夢、現実は現実。博麗神社のお賽銭箱にお賽銭が入るのなんて、夢のまた夢なのです。
鈴仙は霊夢を起こすことを諦めて、これ幸いと休憩することにして、霊夢の隣に腰をおろしました。これだけ働いたのです。多少の休憩くらいしても罰は当たらないでしょう。むしろどちらかといえば、掃除することになった経緯が理不尽なくらいですから。
「ふぅ。まさかこんなところに来て掃除をする羽目になるなんてね」
もちろん霊夢は寝ているので、鈴仙の独り言です。
紫は、鈴仙が気付かないうちにいなくなっていました。
「あらあら。可愛い寝顔ね〜」
と思ったらいました。いつの間にか、寝ている霊夢を挟んで自分とは反対側に座っています。『一体どこへ?』とか『いつの間にそこに?』とか、疑問は色々ありますが、あまり深く考えないように努める鈴仙でした。
「紫さま。さっきから霊夢は寝っぱなしなんです。言われた場所は一通り掃除したんですが。次はどこをやればいいかもわからなくて」
「貴女も律儀ねぇ。騙されてやってるのにそこまでしなくてもいいわよ」
ちなみに、騙したのは紫です。
しかし鈴仙はわざわざ指摘しません。
苛められるのには慣れているのです。
そもそも、鈴仙の本来の目的は紫に薬を届けることです。それが紫と散歩をすることになって。今度は、その散歩の先、博麗神社を掃除して。それが今終わったので、次は何をやらされるのでしょう。すっかり紫に引っ張りまわされている鈴仙です。弱みを握られているので、文句は言えないのが悲しいところです。
「それよりも。貴女に見せたいものがあるのよ。霊夢も起こしましょう」
「それが、さっきから呼んでも起きないのです。寝言と寝返りばかりで……」
下手に触ったらなんとなく攻撃されそうなので、揺すったりはしてません。
相手は博麗霊夢です。たとえ寝ていたとしても、無意識の反撃くらいしてもおかしくはありません。
そんなことを考える鈴仙をよそに、紫は霊夢の耳元で囁きます。
「霊夢。貴女の大好きなお賽銭箱は、か・ら・よ」
「いやぁーーーっ!!!」
起きました。
幻想郷全土に聞こえるのではないかと思うほどの、絶叫と共に。
鈴仙は何だか、ドッと疲れた気分になりました。
「おはよう、霊夢」
「うぅ。からは、嫌……」
どうやら気分はまだ夢の続きみたいです。半分涙目なあたり、本気で死活問題なのかもしまれんが。
「ほら、しゃんとなさい、霊夢。屋根に上らせてもらうわよ」
「あー、はいはい。私も行くわ」
「屋根?」
屋根に何があるのでしょうか。鈴仙にはさっぱりでした。
そろそろ覚醒してきた霊夢はわかっている様子ですが。
「行けばわかるわよ」
紫と霊夢に付いていって、屋根に飛び上がる鈴仙が目にしたものは――
「わわっ!!」
真っ紅に染まった幻想郷でした。
空が。
大地が。
山も森も湖も。
人間の里や、鈴仙が住んでいる竹林も。
全てが真っ紅に染まっています。
「綺麗……」
血に染まったり月の狂気にやられたりしたのではなく、もちろん夕日です。
博麗神社の屋根からは幻想郷が見渡せるので、景色がとてもいいのでした。
今のような夕日や朝日などは、まさに絶景です。
紫が見せたかったものとはこれのことなのでした。
「どう? 素敵でしょう?」
屋根に立ち上がっている霊夢(寝起き)が鈴仙に尋ねます。
それは、自分の家からこんなに良い景色が見られるという自慢にも聞こえますが。
鈴仙には別の意味に聞こえました。
まるでその『素敵』が幻想郷にかかっているように。
「……ええ。素敵ね」
鈴仙は先ほどまでの掃除の疲れも忘れて見入っていました。
夕焼け。
ただそれだけなのに、どうしてこう心を奪われるのでしょう。
自然が多いというのはもちろんありますが、それだけではありません。
「いいところね、幻想郷は」
鈴仙が幻想郷を好きだからでしょう。
好きな場所が綺麗に夕焼けに染まっているのです。嬉しくないはずがありません。
「もちろんよ! お賽銭箱がいっぱいになればもっといいんだけどね」
鈴仙は幻想郷に来てまだ長くありません。(それでも霊夢の人生よりは長いのですけど、妖怪と人間とだと寿命が違うので、体感時間がズレているのです)
まだまだ知らないことばかりですけれど、今、少なくとも博麗神社の屋根から見る景色が素晴らしいことはわかりました。きっと他にもいいところはたくさんあるでしょう。友達もできるかもしれません。
鈴仙は、先日まで隠れ住んできたのが本当にもったいないと思うほど、幻想郷が好きになっていました。
「さて。貴女の心は決まったかしら? ウサギさん」
「だからウサギさんは止めて下さいと……。紫さまは、私が今悩んでいる内容をご存知なのですね?」
「そうね。貴女の師匠に頼まれてね。薬のお代の代わりに、貴女に協力してあげてほしい、と。弟子思いのいい師匠じゃない」
それを聞いて、苦笑する鈴仙です。
何だかんだいって、永琳は自分の師匠なのです。
「…………私はあまり賢くないので、一体どうすればいいのかわかりませんけれど……」
「けれど?」
「一つ言えることは」
「何かしら?」
「私はここが好きです」
「それで十分ね!」
二人の会話にまったく付いていけない霊夢でしたけれど、幻想郷を好きになってくれることは嬉しいことだと、沈み行く夕焼けを見ながらのん気に考えていました。その時です。
「おーい! 霊夢ー」
神社の鳥居の方から霊夢を呼ぶ声がしました。
鈴仙にもその声は聞き覚えがあります。霧雨魔理沙です。
「あ、魔理沙だわ。来たみたいね」
「魔理沙ってあの魔法つか……て、なにっ!? あの集団はなにっ!?」
神社の鳥居付近には、魔理沙を先頭に10人近くの人妖達がわらわらと集まっていました。
「あれ? 貴女のところにも言ってあったと思うけど? だから来たんじゃなかったの?」
貴女のところ?
言ってあった?
だから来た?
鈴仙の頭には、見事にクエスチョンマークが浮かびまくっています。
「何の話よ」
「今夜は満月でしょう。お月見に決まってるじゃない!!」
お月見という名の宴会、の間違いです。
「ちょっと幹事! 何で全員一緒に来るのよ?」
「いやー、ちょうど階段の下でみんなと会ってな」
「べ、別に私はあんたなんかと一緒に来たくなかったんだからねっ!」
「はいはい。掃除は出来てるから、さっさと準備するわよ」
「お、珍しいこともあるもんだ」
「したのは私じゃないけどね」
「そんなことだろうと思ったぜ」
「お嬢さま。満月の夜だからって手当たり次第暴れたりしないで下さいね」
「あら失礼ね。そんなことしないわよ?」
「ご冗談を」
「咲夜とは一度、普段私をどんな目で見ているかについて話し合う必要がありそうね」
「……冗談ですってば」
「ちなみに私は、咲夜のことは所々間が抜けたメイドだと思っているわ」
「まぁ、酷いですわ」
「紫〜。今日は貴女の式は一緒じゃないのかしら?」
「ええ。藍は留守番させているわ」
「幽々子さま。宴会だからって手当たり次第食べたりしないで下さいね?」
「いやいや妖夢。せっかくなのだからたくさん戴かなくては勿体ないわ」
「それではいくら食料があっても足りません!」
「大丈夫よ、ほら、あそこに兎がいるじゃない」
「あれも月見に呼ばれた人です!」
「昼は世話になったな……鈴仙」
「いえ、世話になったのは私の方よ」
「お互い様ということだな」
「それで慧音。貴女がいるということは……」
「ああ。妹紅もいるぞ」
「輝夜。私は今日、喧嘩をしに来たんじゃないから」
「あら、奇遇ね。私もよ。今日は綺麗な満月が見れそうね」
「たまには飲むか」
「あら、生き返るわね〜」
「て、姫も来ているのですか」
「そうよ、来てるわよ。置いていくなんて酷いじゃない?」
「そうか、言ってあったって、永遠亭に誘いが来てたってことね」
「いいこと因幡? 次からは勝手に出て行っては駄目よ?」
「…………当然です。私が姫や師匠を置いてどこかに行くわけないじゃないですか!」
「……お前、月に帰る気はある?」
永琳は言いました。
「もちろん、帰れと言っているわけではないのよ? あくまで可能性の話。随分前に、お前は月での人間との戦争から逃れて一人でここにやってきた。その時私は、お前が月を見捨てて、また月から見捨てられて逃げてきたのだと思った。私達も似たような立場だったから。姫は月を追放されて、罪が償われた後は月を見捨てて地上で暮らすことを決めた。私は月ではなく姫の傍にいることを誓っていた。しかし、お前は違った。月での戦争が月の民に不利になってきた時、お前には月からの通信が入った。助けてほしいとね。そこが私達との決定的な差。お前はまだ月から頼りにされていたのよ。私と姫は月の民を何人も殺した。だから月には戻れない。でもお前は違う。月の戦争は終わったのかもしないし、終わってないのかもしれない。勝ったのかも負けたのかもわからない。しかし、お前には選択肢がある。月に戻るか、幻想郷に残るか。月からの使者が幻想郷に入れないと分かった以上、戦力自体はそれほど必要ではないのよ。だからここで姫を守る必要はないわ。お前は、月に戻ってまだ戦争が続いていれば助けてやればいい。もし負けていたのなら、そこに居ついた人間に復讐することもできる。親しい者もいたでしょう。心配になることもあるでしょう。私や姫がいたのはもう千年も前。でもお前はまだそんなに長くない。逆に言えば、あまり長い間離れていると、戻る機会が永遠になくなってしまうのよ。もう一度言うわ。別に帰れと言っているわけではないのよ? ここの方が暮らしやすいならいつまでもいればいいし、月に帰りたくないなら帰らなくてもいい。ただ、今ではないいつか、お前が月に帰りたいと思う時が来るかもしれない。でもその時になったら、今よりも帰り辛いのは間違いない。それが、手遅れにならないように。私や姫のようにならないように。どうするかを考えておいた方がいいのよ。
方法については問題ないわ。その気があるなら、明日、八雲紫に会ったら頼んでみなさい。きっと承諾してくれるでしょう。まぁ、彼女のことなので快くではないかもしれないけれど。大丈夫、手は打ってあるから。
だからね。手遅れになる前に、よく考えなさい、レイセン。月に戻るか、ここに残るかを」
終